四日市市県地区まちづくり委員会

あがたの神社・教会

懸神社(赤水町)

懸神社のあらまし

県神社は、平尾町2096番地にあります。懸神社

大正6年(1917)2月5日、6つの神社が合祀(ごうし)されてここに建てられました。

 

その各社は次のとおりです。

  1. 祭神 建速須佐之男命・品陀和気命
    ・・・・・平尾町西屋敷に鎮座した村社須賀神社
  2. 祭神 建速須佐之男命
    ・・・・・江村町神戸に鎮座した村社須賀神社
  3. 祭神 天児屋根命
    ・・・・・平尾町東屋敷に鎮座した村社春日神社
  4. 祭神 菅原道真朝臣命
    ・・・・・北野町左右垣内に鎮座した村社北野天満社
  5. 祭神 天児屋根命・天照皇大神・武御雷命・齋主命
    ・・・・・赤水町垣内に鎮座した村社春日神社
  6. 祭神 大山祇命
    ・・・・・北野・江村・平尾東西・赤水の各町の山神社

県神社には、本殿、拝殿、神楽殿、社務所、祭具庫、手水舎の建物があり、境内は約490坪(1,617㎡)の広さで、氏子数は合祀当時218戸でした。

現在当社には各社の棟札が保存されています。

天満神社(北野) 延宝8年(1680)
春日神社(平尾) 寛延4年(1751)
須賀神社(平尾) 宝暦5年(1755)
春日神社(赤水) 貞享2年(1685)
須賀神社(江村) 天保3年(1832)

・・・・・地替造営の棟札、創建はさらにさかのぼる

懸神社今の建物は、拝殿が昭和47年(1972)に、社務所が昭和50年(1975)に新築されました。

また昭和53年(1978)には神門玉垣の新築と神殿の修復がされました。

さらに昭和60年(1 985)に志納所・御倉の増改築をして完成されました。

神殿は神明造りで、切り妻平入り、千木(ちぎ)は内宮と同じく先が水平、堅魚木は5本です。

 

当社の代表的な祭りは、2月18日の御鍬祭で、豊作と健康を祈り、ぼた餅を作ってそなえました。

また夏祭りは、ほおずき提灯をぶらさげて参拝しました。

奉納の舞

 

一番盛大だったのは10月8日の(今は10日)の秋祭りで、餅をついて重箱につめ親戚に配りました。


嫁に行った者、奉公に出ている者、みんな晴れ着姿でよばれに行き、帰りには重箱いっぱいの寿司をみやげにもらいました。
また村の若者による相撲も奉納され賑やかでした。

御厨衣比原神社(下海老町)

下海老の神社のあらまし

御厨衣比原神社下海老町の北西部の字北垣内にあり、 御厨衣比原神社(みくりやえびはらじんじゃ) といいます。

 

以前は現在より約2 km 東北の低地にあったといわれています。

小字名で「宮の前・宮の代・宮の北」などが残っていることから、その辺りではないかと推測されます。

海蔵川、竹谷川の度重なる氾濫で、高台の現在地へ一般の宅地とともに移転したと伝えられています。

 

 

御厨衣比原神社

中世時代には大宮大明神といわれていましたが、明治5年(1872)には「衣比原神社」として名前が見られます。

改称された理由として、稲生神社の御厨であったためか、あるいは神社の付近を「稲場」と言っていたためか、520年前の「醍醐寺文書」に衣比原御厨の名が見られる等によって改称されたのか、種々推察されますが確かなことはわかりません。

今は「御厨衣比原神社」と碑に記されています。

大正4年(1915)県条例で4社が合祀されました。

 

 

  1. 祭神 譽田別命 ・・・・・字大坪に鎮座した若宮八幡大社(八幡さん) 「北の宮さん」ともいわれ、応仁天皇が祀られ7月が祭礼でした。
    金色の蛇が祀ってあるとも思われていたようですが、何の文献もありません。遺跡は約1haあり、椎の大木が茂り、昼でも暗い森で高い階段を登ったところに社殿があったようです。今では個人所有の山林となっています。

  2. 祭神 倉稲魂命 ・・・・・字桜に鎮座した桜神社(おいなりさん)
    倉稲魂命は田の神で、いなりさんと呼ばれていました。明治13年(1880)に現・富田町の伊藤仙寿氏が京都伏見の稲荷から分霊を受け、官許を得てお祀りしたといわれています。

  3. 祭神 豊宇気毘賣神 ・・・・・字北垣内に鎮座した村社衣比原神社(豊受けさん)
    衣比原神社は河芸郡の伊那富(稲生)神社と関係が深かったようです。(約910年前の文献による)。 神社の傍らに観音堂があり、貢ぎものの御厨の稲を収蔵したもので、その辺りを稲堤と言っていたそうです。
    神社の大祭には大きな幟(のぼり)が幾組も立ち、その中の一組には観音さんと仏さんに関係のある「リンボウの紋」の入った幟が立てられたそうです。これは中世の神仏習合のあらわれと思われます。

  4. 祭神 大山祇命 ・・・・・字・北起・字南垣内に鎮座した山の神社(山の神さん)
    山の神社は「山の神さん」と呼ばれ、両地とも大きな松が茂り、正月の6日にはかがり火を焚き、正月の松かざり、しめなわや神宮からいただいた古いお札、大麻を焼くドンドが行われていたようです。 今は「山の神」と刻まれた石が祀られています。

御厨衣比原神社

 

御厨衣比原神社の境内は約1haあり、所々に燈籠がたてられ、その中の3組は天保時代と記されています。

鳥居が二つあり、社殿に近い方は安政年間、入り口の大鳥居は昭和15年(1940)に建立されたものです。

手洗い石は天保末とあり、江戸時代にできたものが多く見られます。こま狗は大正時代の献納となっています。

神殿は神明造りで、昭和の御大典記念に造営され、その他社務所、太鼓倉、土蔵等は数十年前に造られたものです。


祭事は、2月の御鍬(みくわ)、7月の雨乞い(太鼓節で太鼓を打ちならし雨乞いをする)、 それに10月8日の秋祭りです。

衣比原御厨神明社(上海老町)

上海老の神社のあらまし

衣比原御厨神明社上海老町758番地にあり、 村社衣比原御厨神明社(むらやしろ みくりやえびはらしんめいしゃ)といいます。

 

祭神は天照 大神・須佐之男命・譽田別命・市杵嶋姫命・倉稲・菅原道真公・大山祇神です。

 

当社は、衣比原御厨の神明社で、『神鳳鈔』に、 「衣比原御厨六石、旧字古井戸」という地に澄んだ泉の池あり。清水と名づけ、どんな干ばつでも水が枯れることがなく、その水を灌漑 かんがい する田地が即ち御厨である。」と記されています。

衣比原御厨神明社

 

寛正2年(1461)の古帳簿(旧家海老原氏所蔵)に御厨の神明と記載してあります。

 

市杵嶋姫命は当社の北方(旧字名池底)という所に大きな池があり、その近くに鎮座していましたが、灌漑用水が海蔵川からひけるようになったため、池を埋めて当社に合祀されました。

 

明治6年(1873)村社に列せられ、明治31年(1898)許可を得て衣比原御厨神明社と改称されました。

 

衣比原御厨神明社

大正4年(1915)に上海老原字西岡山の稲荷社、字東野の山神社、字東大沢の山神社を合祀。 さらに大正6年(1917)黒田町の、字宮の前 村社須賀神社、西川原山の神社を合祀しました。

 

例祭は毎年10月13日に行います。

当社の境内は330坪(1089㎡)あり、社殿、本殿、拝殿、鳥居祭舎神饌所、本殿雨覆舎、手水舎、祭器庫が建てられています。氏子数は合祀当時133戸でした。

 

天理教県神分教会

天理教県神分教会 のあらまし

天理教県神分教会四日市市平尾町2154番地にあって、天理教県神分教会といいます。

創立は昭和8年(1933)。 境内地の面積は2400㎡で建物面積は約360㎡あり、親神天理王命、教祖、祖霊様が祭神として祀られています。

 

〔創立の経過〕

初代教会長の森 長市は、明治13年(1880)員弁郡中里村上相場に生まれ、明治26年(1893)ころから四日市の製油工場に勤めていましたが、大正初期天理教に入信し、それまでの勤めを辞めて八百屋を営むかたわら、坂部・御館・赤水方面へ布教に歩きました。

 

大正14年(1925)御館の地に集談所を開設し布教の拠点としました。

 

昭和7年(1932)ころになると信者も次第に増えてきたため、県村の現在地に神殿を建築し、教会を設立しました。

 

〔恒例祭〕

1月 1日 元旦祭
1月18日 春季大祭
3月 5日 春季零祭
9月 5日 秋季零祭
10月 18日 秋季大祭

 

〔主な行事〕

  • 毎月1回 ひのきしん活動 (奉仕活動)
  • 幼少年育成活動 (こどもおぢばがえり等)